年号がァ!!年号が変わっている!!
漫画『鬼滅の刃』に登場する手鬼の台詞。より正確には、「アァアアア年号がァ!!年号が変わっている!!」である。手鬼は本編開始時から47年前の慶応時代、当時隊士だった鱗滝によって捕らえられる。彼は鱗滝に深い恨みを抱いたまま、鱗滝の弟子13人を含む50人の候補生を捕食しつつ藤の牢獄で生き続け、遂に本編中で竈門炭治郎と相対するに至る。その際「小僧、今は明治何年だ?」と問うたのだが、返ってきたのは最早明治ではなく大正であるという返答。再び変化した元号によって、自身がいかに長く牢獄内に閉じ込められていたかを改めて突き付けられた手鬼は、地を踏み鳴らし体を掻き毟って怒りに悶えるのであった。
はじめに:鬼滅の刃序盤の衝撃!手鬼の「年号がァ!!」という魂の叫び
人気漫画『鬼滅の刃』の物語序盤、多くの読者や視聴者に強烈な印象を植え付けた場面があります。
それは、主人公・竈門炭治郎【かまど たんじろう】が鬼殺隊【きさつたい】に入るための最終関門、「最終選別」での出来事でした。
そこに現れたのは、おびただしい数の腕を持つ異形の鬼。後に「手鬼」と呼ばれることになる存在です。
彼の登場シーンは、不気味さと圧倒的な威圧感に満ちていました。
そして、炭治郎との対話の中で放たれた魂の叫びこそが、今回の主題である「アァアアア年号がァ!!年号が変わっている!!」です。
このセリフは、単なる驚きや怒りの表現に留まりません。
そこには、計り知れないほどの長い時間、孤独と憎しみに囚われ続けた鬼の絶望が凝縮されています。
この言葉のインパクトは絶大で、作品のファンを中心に広く知れ渡り、インターネット上では一種の有名なフレーズとして独り歩きするほどになりました。
しかし、なぜ手鬼はこれほどまでに年号の変化に激高したのでしょうか。
この記事では、この有名なセリフが生まれた背景を深く掘り下げていきます。
手鬼と、彼を捕らえた鱗滝左近次【うろこだき さこんじ】との因縁。47年という時間の重み。そして、鬼となる前の悲しい人間の記憶。
これらの要素を一つ一つ紐解きながら、手鬼の魂の叫びに込められた本当の意味に迫ります。
すべての元凶?手鬼を捕らえた元・水柱「鱗滝左近次」との因縁
手鬼の物語を理解する上で、決して欠かすことのできない人物がいます。
それは、主人公・炭治郎の師匠でもある、元・水柱【みずばしら】の鱗滝左近次です。
手鬼と鱗滝の因縁は、物語が始まるずっと前、47年も昔の出来事に遡ります。
当時まだ鬼殺隊の隊士として活動していた鱗滝は、鬼と化した若き日の手鬼と対峙し、これを打ち破りました。
しかし、頸を斬ることができず、生け捕りにする形となります。
そして、捕らえられた手鬼が送り込まれたのが、最終選別の舞台でもある藤襲山【ふじかさねやま】でした。
この山は、鬼が嫌う藤の花が一年中咲き誇っており、鬼たちにとっては抜け出すことのできない牢獄そのものです。
手鬼は、この藤の花の牢獄に閉じ込められた瞬間から、自分を捕らえた鱗滝に対して消えることのない深い恨みを抱くようになりました。
自分から自由を奪い、暗く孤独な世界に閉じ込めた張本人として、鱗滝の名はその心に深く刻み込まれます。
この強烈な憎悪こそが、手鬼を47年もの長きにわたって生き長らえさせ、彼の行動を支配するすべての原動力となっていったのです。
鱗滝への復讐。ただその一心で、手鬼は終わりの見えない時間の中を生き続けることになります。
「今は明治何年だ?」手鬼が年号に固執した本当の理由
藤襲山で炭治郎と出会った手鬼は、開口一番、奇妙な問いを投げかけます。
「小僧、今は明治何年だ?」
この問いかけこそ、彼の内面を理解するための重要な鍵となります。
なぜ彼は、現在が「明治時代であること」を前提として質問したのでしょうか。
それは、手鬼の時間が、鱗滝に捕らえられた江戸時代の末期、すなわち慶応【けいおう】の時代で止まっていたからです。
彼にとっての世界は、自分が自由だった最後の瞬間から更新されていませんでした。
藤の花に囲まれた閉鎖的な環境では、外の世界の変化を知る術もありません。
そのため、年号の移り変わりは、自分がどれほどの時間をこの牢獄で過ごしたのかを測るための、唯一と言っていい物差しだったのです。
彼の問いは、単なる時間確認ではありませんでした。
それは、自分の存在がどれだけ長く世間から忘れられ、この場所に取り残されてきたのかを確認する、恐ろしい作業でもあったのです。
おそらく、彼は心のどこかで「まだ明治の初めくらいだろう」と予測していたのかもしれません。
しかし、炭治郎から返ってきた答えは、その淡い期待すらも無慈悲に打ち砕くものでした。
この質問は、彼の孤独の深さと、外界への未練が入り混じった、悲痛な問いかけだったと言えるでしょう。
慶応、明治、そして大正へ。セリフから読み解く47年という絶望的な時間
「大正だ」
炭治郎から告げられた無情な事実に、手鬼は言葉を失います。
そして、次の瞬間、彼の内側に溜め込まれていた絶望が爆発しました。
「アァアアア年号がァ!!年号が変わっている!!」
地団駄を踏み、自らの体を掻き毟りながら絶叫する姿は、彼の受けた衝撃の大きさを物語っています。
手鬼が捕らえられたのは慶応時代。日本の歴史区分で言えば江戸時代の最終盤です。
その次に来るのが明治時代。そして、炭治郎が生きているのは、さらにその次の大正時代。
年号が、一つどころか、二つも変わってしまっていたのです。
慶応4年(明治元年)が西暦1868年。物語の舞台である大正時代は1912年から始まります。
作中で語られる通り、実に47年もの歳月が流れていました。
半世紀近い時間を、たった一人、復讐心だけを燃やしながら藤襲山で過ごしてきたのです。
想像を絶する孤独と閉塞感。毎日同じ景色を見上げ、同じ憎しみを繰り返し、ただひたすらに誰かを待ち続ける日々。
「年号が変わっている」という事実は、彼が失った時間の長さを、これ以上ないほど明確に突きつけました。
自分の人生が、憎い鱗滝への復讐のためだけに費やされ、完全に虚無なものと化してしまったという耐え難い現実。
あの激しい怒りは、単に時間が経過したことへの驚きではなく、自分の存在そのものが無に帰してしまったかのような、深い絶望から来た叫びだったのです。
なぜ手鬼は鱗滝の弟子ばかりを狙い続けたのか?
手鬼の復讐心は、非常に歪んだ形で実行されていきました。
彼の憎しみの対象は、本来であれば鱗滝左近次その人のはずです。
しかし、藤襲山から出られない手鬼にとって、鱗滝本人に手を出すことは不可能です。
そこで彼は、復讐の矛先を「鱗滝の弟子」へと向けました。
なぜ、鱗滝の弟子だと見分けることができたのか。その理由は、鱗滝が弟子たちに贈る「厄除の面【やくじょのめん】」にありました。
この面は、師である鱗滝が、弟子の無事を祈って手ずから彫ったものです。
皮肉なことに、この愛情のこもった面が、手鬼にとっては格好の標的を見分けるための目印となってしまったのです。
「この面が目印なんだ。鱗滝の弟子だってすぐにわかる」
手鬼はそう語ります。面をつけている者を見つけては捕食し、その数を数えることが、彼の唯一の慰めであり、復讐の手段でした。
大切な弟子たちが次々と殺されていく様を、山の外にいる鱗滝が知ればどれほど苦しむだろうか。
そうした想像をすることで、手鬼は自らの恨みを晴らそうとしていたのです。
直接的な復讐ができない代わりに、相手が最も大切にしているものを奪い続けるという、陰湿で執拗な方法。ここに、彼の深い執念が見て取れます。
「また儂の可愛い狐が死んだ」歪んだ愛情と復讐心
手鬼は、鱗滝の弟子たちを殺めるたびに、心の中で喜びを感じていました。
彼は、鱗滝が彫った厄除の面が狐を模していることから、その弟子たちを「狐小僧」「可愛い狐」と呼びます。
「あいつの弟子はみんな殺してやるって決めてるんだ」
その言葉通り、手鬼は最終選別にやってきた鱗滝の弟子を、一人、また一人と殺害していきました。
炭治郎の兄弟子にあたる錆兎【さびと】や真菰【まこも】も、その犠牲者です。
手鬼が炭治郎と出会うまでに殺害した鱗滝の弟子は、実に13人にものぼります。
弟子を殺す行為は、彼にとって単なる食事ではありませんでした。
それは、鱗滝への憎しみを晴らすための儀式であり、歪んだ復讐劇の演目の一つだったのです。
「また儂の可愛い狐が死んだ」と、鱗滝が嘆き悲しむ姿を想像しては、ほくそ笑む。
その行為は、47年間の孤独と憎悪が生み出した、あまりにも悲しい心の在り方でした。
手鬼の中で、鱗滝の弟子を殺すことは、鱗滝本人を精神的に殺すことと同義だったのです。
彼の行動は、純粋な憎しみだけでなく、自分だけが時の中から取り残されているという孤独感が、さらに歪ませていった結果と言えるでしょう。
ついに相対する新たな弟子「竈門炭治郎」
そして、手鬼の前に14人目の「狐」が現れます。
それが、主人公の竈門炭治郎でした。
炭治郎もまた、鱗滝から贈られた厄除の面をつけていました。
手鬼にとって、炭治郎はこれまでの13人と同じ、ただの獲物であり、復讐の対象にすぎませんでした。
しかし、炭治郎はこれまでの弟子たちとは違いました。
彼は、すでに亡霊となっていた錆兎や真菰から鍛えられ、その教えを深く身に付けていました。
手鬼の素早い攻撃、そして何本もの腕から繰り出される変幻自在の攻めに対し、炭治郎は必死に応戦します。
戦いの中で、炭治郎は手鬼の体から漂う「悲しい匂い」を嗅ぎ取ります。
そして、これまでの弟子たちが苦戦した、硬い頸の攻略法を模索します。
最終的に炭治郎は、師である鱗滝から教わった呼吸法、「水の呼吸」の最初の型で勝負を決めました。
壱ノ型 水面斬り【みなもぎり】。
水平に放たれたその美しい一閃は、見事に手鬼の頸を捉えます。
47年もの間、誰にも斬らせなかった頑丈な頸が、ついに断ち切られた瞬間でした。
それは、長きにわたる手鬼の復讐劇の終幕であり、鱗滝から弟子へと受け継がれた想いが、ついに因縁を断ち切った瞬間でもありました。
斬られた瞬間に思い出した人間の頃の記憶
『鬼滅の刃』という作品では、多くの鬼が、その命が尽きる間際に人間だった頃の記憶を取り戻します。
それは、罪を犯し、多くの人を喰らった鬼たちが見せる、最後の人間性のかけらです。
47年もの間、憎しみだけを糧に生きてきた手鬼も、例外ではありませんでした。
炭治郎によって頸を斬られ、体が崩れ落ちていくその瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは、自分が鬼になるずっと前の、遠い過去の光景でした。
彼は、恐ろしい異形の鬼ではなく、ただの幼い少年だったのです。
日暮れ時、兄と一緒に家に帰る道。
そんな、ありふれた日常の断片が、彼の心に蘇りました。
鬼として生きた長い年月の中で、すっかり忘れてしまっていた、温かくて懐かしい記憶。
憎悪に塗りつぶされていた心に、ほんのわずかな光が差し込んだ瞬間でした。
この記憶の回想は、手鬼という存在が、生まれながらの怪物ではなかったことを示しています。
彼もまた、かつては家族がいて、ささやかな日常を送っていた一人の人間に過ぎなかったのです。
手鬼が見た最期の夢。本当は兄と手を繋ぎたかった少年
消えゆく意識の中で、手鬼が見た記憶はさらに鮮明になります。
それは、幼い自分が、兄の後ろを必死について歩いている光景でした。
夜道を怖がり、兄の着物を掴んで「手を繋いでよ」とせがむ自分。
しかし兄は、「一人で歩けないのか」と、その手を振り払います。
ただ、怖いから。ただ、兄の温もりが欲しくて手を伸ばしただけ。
その小さな願いが叶えられなかった寂しい記憶。
鬼になってから、彼の体から無数に生えた腕は、獲物を捕らえるための強力な武器でした。
しかし、そのおびただしい数の腕は、もしかしたら、人間だった頃に繋ぎたかった誰かの手を、無意識に求め続けた結果だったのかもしれません。
叶わなかった願望が、歪んだ形で肉体に現れたのだとしたら、あまりにも悲しいことです。
朝日が昇り、その光を浴びて塵へと変わっていく最期の瞬間。
手鬼の魂は、ようやく憎しみから解放されました。
そして、差し伸べられた温かい手に、自分の手を重ねます。
それは、ずっと昔に繋ぎたかった、大好きな兄の手でした。
彼はようやく、長い孤独と憎しみの夜から解放され、安らかな眠りについたのです。
まとめ:「年号」の叫びに込められた鬼の悲哀と人間の記憶
手鬼の放った「アァアアア年号がァ!!年号が変わっている!!」という叫び。
このセリフを改めて振り返ると、そこに込められた感情の深さに気づかされます。
それは、単に時間の経過に驚いただけの言葉ではありません。
47年という、想像を絶するほどの長い時間を藤襲山で生き続けた孤独。
自分を閉じ込めた鱗滝左近次への、決して消えることのない憎悪。
そして、心の奥底に追いやられていた、人間だった頃の満たされなかった寂しい記憶。
これらすべての感情が、年号の変化という一つの事実をきっかけに爆発し、魂の叫びとなって現れたのです。
手鬼の物語は、『鬼滅の刃』が単なる悪を討つ物語ではないことを、序盤で強く印象付けています。
すべての鬼には、鬼となるに至った悲しい過去がある。
炭治郎が鬼の頸を斬りながらも、その悲しい匂いに慈悲の心を向けるように、私たち読者もまた、彼らの背景にある物語に思いを馳せることができます。
手鬼の絶叫は、鬼の恐ろしさだけでなく、その内に秘められた悲哀と人間性の名残を伝える、忘れられない名場面として、これからも語り継がれていくことでしょう。