全ての始まりは一本の「没ネーム」から
今やコミックスの世界累計発行部数は2億2000万部を超えています。劇場版の興行収入は404.3億円と日本歴代1位を記録しました。まさに社会現象となった作品、それが「鬼滅の刃」です。しかし、この作品が世に出るまでには、作者の知られざる壮絶な物語がありました。「鬼滅の刃」が現在の姿になるまで、その全ての始まりである一本の持ち込み原稿から徹底的に紐解いていきます。この記事を読み終わる頃には、「鬼滅の刃」に対する見方は180度変わっているはずです。
2013年、全ての物語は福岡県出身の一人の漫画家、吾峠呼世晴先生が書いた一本の読み切り作品から始まります。幼い頃から絵を描くのは好きだったものの、専門学校やアシスタントの経験はありませんでした。ほぼ独学でその技術を磨いてきたと言われています。特に「ジョジョの奇妙な冒険」や「銀魂」といったジャンプ作品を深く愛していました。
そんな吾峠先生が24歳の時に書き上げたのが、後に「鬼滅の刃」の原型となる読切「過狩り狩り」です。しかし、吾峠先生自身はこの作品に全く自信がなく、処分するつもりでした。それを止めたのは先生の家族です。「それなら一番好きな雑誌に送ってみたら」という後押しを受け、週刊少年ジャンプに投稿します。そして、この作品が第70回ジャンプトレジャー新人漫画賞で佳作を受賞するのです。
この「過狩り狩り」の設定は、当時からかなり固まっていました。舞台は明治時代。敵は「鬼」ではなく西洋由来の「吸血鬼」でした。そして主人公の「流(ながれ)」は、盲目で片腕という重いハンデを背負った寡黙な剣士でした。さらに、商業誌のセオリーを無視して、扉絵で主人公の顔を隠します。物語の後半まで本格的に登場させないという、極めて作家性の強い構成を取っていたのです。この時点から、後の鬼舞辻無惨の原型と見られる敵や、珠世、愈史郎といったキャラクターは登場しており、才能の片鱗を覗かせていました。しかし、あまりにもダークでマニアックなこの作品が、国民的ヒット作となるには、まだ大きな壁がいくつも立ちはだかっていたのです。
作者・吾峠呼世晴の知られざる苦悩と才能
「過狩り狩り」で評価された吾峠先生は、連載を目指します。しかし、提出するネーム※は不採用が続きました。吾峠先生は2015年中に連載を取れなければ漫画家を辞めるという、悲壮な覚悟で創作に打ち込んでいました。この苦境の中、担当編集者の助言で原点回帰を決意します。「過狩り狩り」をベースにした連載用ネーム「鬼殺の流」を完成させました。この作品で、「呼吸」や「鬼殺隊」といった、今の「鬼滅の刃」の根幹をなす設定が初めて導入されたのです。
注釈:ネームとは、漫画の設計図や下書きのこと。コマ割りやキャラクターの配置、セリフなどが大まかに描かれたもの。
なぜ主人公は「竈門炭治郎」になったのか?
しかし、ここでもまだ主人公はあの寡黙な剣士「流」でした。しかもハンデはさらに増え、盲目、片腕、そして両足義足という設定でした。その結果、「世界観がシビアすぎる」「主人公が寡黙すぎて読者が感情移入しづらい」という理由で、またしても連載会議で落選してしまいます。ここで運命を変える一つの提案がなされます。担当編集者が言いました。「主人公を普通の人物にして、その周りに異常な人物を配置するという王道の構成にしてみてはどうか」と。
この助言を受け入れた吾峠先生は、最大の決断を下します。「鬼殺の流」の構想段階では脇役の一人に過ぎなかった、明るく心優しい少年「竈門炭治郎」を新たな主人公に据えることにしたのです。この主人公の転換こそが、「鬼滅の刃」が社会現象になるための最も重要なターニングポイントでした。
運命の転換点となった担当編集者の「神の一言」
読者が共感できる「普通」の少年である竈門炭治郎の視点。その視点を通して、鬼や「柱」といった異常な世界を追体験する。この構造変更によって、作者の持つ特異な作家性と、少年漫画の王道である普遍性が見事に融合しました。そして、ついに「鬼滅の刃」が誕生したのです。ちなみに、ボツになった主人公「流」の要素は、水柱・冨岡義勇に色濃く受け継がれています。彼こそは、もしもの世界の「鬼滅の刃」の主人公だったのかもしれません。
伝説の始まり。制作会社ufotableという起爆スイッチ
2018年6月、物語が大きく動き出します。「鬼滅の刃」のテレビアニメ化が発表。そして、その制作をあのアニメ制作会社ufotable(ユーフォーテーブル)が担当することも明かされたのです。ufotableといえば、「空の境界」や「Fateシリーズ」で原作の魅力を極限まで引き出す映像美と作画で、アニメファンの間では神格化されていたスタジオです。彼らの起用は、このアニメ化がただ事ではないことを予感させました。
そして、その予感は現実となります。2019年4月、テレビアニメ「鬼滅の刃 竈門炭治郎 立志編」の放送が開始されます。この時点での原作コミックスの累計発行部数は約350万部。決して少なくはありませんが、まだ社会現象と呼ぶには程遠い数字でした。しかし、ufotableの仕事は、はっきり言って異常でした。声優のオーディションは、通常なら絵コンテや線画で行うところを、なんとすでに色がつき、ほぼ完成している本編映像に合わせて行うという徹底ぶりです。
アニメ史に残る「神回」第19話が起こした奇跡
主人公・炭治郎の代名詞である「水の呼吸」の表現は、原作のイメージを再現するために浮世絵を研究しました。CGと作画の最適な融合点を1年がかりで探求したのです。第1話の制作には、実に1年もの歳月をかけたとさえ言われています。この常軌を逸したクオリティがついに爆発します。2019年8月10日、アニメ第19話「ヒノカミ」が放送されます。絶体絶命の炭治郎が、父の記憶から「ヒノカミ神楽」を繰り出すこのエピソード。ufotableの持てる技術の全てを注ぎ込んだ圧巻の作画。物語を最高潮に盛り上げる劇伴。そして涙を誘う挿入歌「竈門炭治郎のうた」この三位一体の演出は、放送直後からSNSで世界的なトレンドとなりました。「神回」としてアニメ史にその名を刻んだのです。
このたった1話が、巨大なうねりを生み出します。アニメのクオリティに衝撃を受けた人々は、原作コミックスを求めて書店に殺到したのです。結果、アニメ放送終了後の2019年9月末、あれだけ安定的だった発行部数はわずか半年で1200万部を突破。アニメ放送開始時の350万部から3倍以上に膨れ上がったのです。これは、アニメ化によるブースト効果としては、まさに異次元の数字でした。ufotableという名の爆薬は見事に着火し、「鬼滅の刃」はここから社会現象への道を駆け上がっていきます。
日本新記録!興行収入404億円の怪物が生まれるまで
アニメ化による熱狂が冷めやらぬ中、「鬼滅の刃」はさらに加速します。2020年5月18日、人気がまさに最高潮に達する中、原作漫画が全205話で完結を迎えます。物語を引き延ばさず、作者が書きたい結末を貫いたこの決断は、作品の評価をさらに高めました。そして、日本中がその熱気に包まれる中、決定的な一撃が放たれます。2020年10月16日、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が公開。ここからの勢いは、もはや誰にも止められませんでした。
公開からわずか10日間で興行収入100億円を突破。これは、それまでの歴代1位「千と千尋の神隠し」が25日かかった記録を、半分以下のスピードで塗り替えるものでした。さらに24日間で200億円、59日間で300億円を突破します。コロナ禍で沈んでいた映画業界の救世主とまで呼ばれる、まさに歴史的な大ヒットとなりました。そして2020年12月、興行収入は「千と千尋の神隠し」が19年間守り続けた316.8億円の記録を抜き去り、日本歴代興行収入第1位の座に輝きます。最終的な興行収入は、国内で404.3億円、全世界では約517億円という天文学的な数字を記録しました。
鬼滅の刃がもたらした驚異の経済効果とは
この影響は映画だけにとどまりません。第一生命経済研究所の試算によると、2020年における「鬼滅の刃」の経済効果は、少なくとも2700億円。内訳は、書籍関連が約850億円、映画関連が500億円以上、そしてキャラクターグッズや企業コラボ商品などが1300億円以上です。この2700億円という市場規模は、日本のバレンタイン、ハロウィン、ホワイトデーの市場を全て足したものとほぼ同じです。一個の作品が、国民的イベント3つ分の経済を動かしたと考えると、その異常さが分かると思います。音楽の世界でも、LiSAさんが歌う主題歌「紅蓮華」と「炎」は記録的な大ヒットを記録。NHK紅白歌合戦には2019年から5年連続で「鬼滅の刃」関連楽曲が披露されるという、前代未聞の快挙を成し遂げました。
原作完結後も終わらない伝説「無限城編」
一度は作者が処分しようとした原稿から始まった物語は、こうして誰も予想しなかった、日本経済をも動かす巨大な社会現象へと登り詰めたのです。そして2025年7月、その神話はまだ終わっていなかったことが証明されます。7月18日に公開された続編「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第1章 序章・再来」この作品が叩き出した数字は、日本映画界の常識を再び覆すものでした。公開からわずか4日間での興行収入は73.1億円を突破。この驚異的なスピードは、かつて絶対に破られないとまで言われた「無限列車編」の初動記録すらも上回るものでした。さらにオープニング成績、初日成績、単日成績という3つの日本記録を樹立。これはもはや単なる大ヒットではありません。原作完結から5年が経過しても、その熱量が衰えるどころか、さらに増しているという事実。そして「鬼滅の刃」が一時的なブームではなく、世代を超えて語り継がれる文化的遺産の域に達したことを、興行収入という最も明確な形で証明した歴史的な瞬間だったのです。
鬼滅の刃はなぜ「社会現象」となり得たのか?その正体
「鬼滅の刃」の成功は、単なる偶然の産物では決してありません。まず、何度ダメ出しをされても「今年ダメなら辞める」と覚悟を決め、己の才能を信じて書き続けた作者・吾峠呼世晴先生の折れない心。才能の塊でありながら、受け手に届かないという欠点を的確に見抜き、「主人公を普通にしろ」という神の助言を与えた担当編集者の慧眼。そして、その物語のポテンシャルを120%引き出すために、採算度外視とも思える常軌を逸した情熱と技術を注ぎ込み、「映像」という爆薬を作り上げた制作会社ufotableの執念。
さらに、アニメ放送から映画公開という最高のタイミングが、コロナ禍でエンタメに飢えていた世の中の需要と完璧に噛み合った「時代の波」作者、編集者、アニメスタジオ、そして時代。この全ての歯車が、一つでも欠けていたら、あるいは一つでも噛み合っていなければ、決して生まれなかった。それが、「鬼滅の刃」という社会現象の正体なのです。
吾峠先生はかつて、コミックスの巻末でこう語っています。「人生とは基本的に努力をしても報われません。報われた時は奇跡が起きているんだと思います」まさに、この「鬼滅の刃」という作品が社会現象になるまでの物語こそが、その奇跡が本当に起きた、何よりの証明だと感じます。作中で描かれた「想いをつないでいく」というテーマは、現実の作り手たちの間でも確かに受け継がれ、このとんでもない奇跡を生み出したのです。私たちはただの漫画やアニメを見ていたのではありません。いくつもの執念と奇跡が織りなす、壮大なドキュメンタリーを目撃していたのかもしれませんね。